LOGIN洗い終わった食器を、水切りカゴへ並べていく。最後に雪臣のグラスを洗い、カゴの隅に置いた。
手を拭き、ビーズリングを右手の薬指に通す。そして左手の薬指には、雪臣から預かっている婚約指輪を嵌めた。「申し訳ない」 洗い物を終えてダイニングへ戻ってきた珠希を見るなり、雪臣がそう口にする。彼は椅子から立ち上がりかけ、結局また座った。どうにもそわそわした、落ち着かない様子に見える。 珠希がこの家に暮らし始めて今日で三日目になるが、当然まだ慣れたわけではない。そして、それは彼も同じみたいだ。「いいの。それより雪臣くん、今日は何時に出るの?」「八時に瀬原が迎えにくる」「えっ……八時って、もうあと二分だよ!?」 今にも長針が十二に重なりそうな時計を見て、珠希の肩が一度跳ねる。 雪臣は少し困惑したふうな顔をして、杖をついて席を立った。「まだ、洗い物をしてくれていた」「そんな、社長なんだし、気にしないで出発していいのに。瀬原さんが来ちゃう、急氷室家の本邸を訪れるのは、顔合わせの日以来だった。そのときはまだ、HIMUROへ入社もしていなかった。ほんのひと月ほど前の出来事だというのに、なんだか懐かしく感じてしまう。 応接室には、雪臣の祖父・雪茂だけでなく、父の秋夫と継母の日美呼、そして異母弟の悠乃介も揃っていた。以前、日美呼にも実力を見せてもらいたいと言われていた以上、全員の同席は予想できたことだった。 雪臣が二人で必ず作り上げると宣言した『期待を超えるジュエリー』を、ようやく形にすることができた。雪茂がどう評するかは分からない。けれど、雪臣と二人で作り上げた、全力の二本に変わりはなかった。 ソファの隣へ腰かけていた雪臣が、テーブルの中央に小さなリングケースを置いた。 「これが、僕と珠希さんの答えです」 雪臣がそっと蓋を開く。 雪茂はすぐには手を伸ばさなかった。身を乗り出し、ケースの中をしばらく眺めている。 「おお、これは……! 雪臣、でかした――」 最初に口を開いたのは、秋夫だった。その声に被せるように、日美呼が喋り出す。 「さすが、雪臣さんと、元・INUI Jewelryの珠希さんですわね。一本ずつはとても素晴らしい。……しかし。邪道とまでは言いませんけれど、これでは、老舗・HIMURO MOTOMACHIに相応しい、二本で一組の結婚指輪に見えないのではないかしら」 雪臣と何度も話し合い、互いの手に合わせて作った指輪だ。形が違うことにも、説明できる理由がある。 「同じ形に揃えることが、私たちにとっての一組ではないと考えました」 珠希は、リングをひとつずつ示した。 「私のリングは、婚約指輪の石座に当たらない形です。雪臣さんのリングは、杖を握るときに負担になりにくい幅と厚みにしました。それぞれ一本で完成し、並べると二つの曲線が新しい流れを作ります」 「なるほど。つまりはお二人だから成立する特注品という意味ですわよね? ねぇ、あなた」 「あ、あぁ……そうかもな……」 納得していない顔の日美呼が秋夫に視線を向ける。秋夫は困ったように眉を下げていた。 「HIMUROのデザイナーとしての実
研磨機の回転音が、アトリエに低く響いている。 母と雪臣が初めて顔を合わせてから、二週間あまりが経った。 あの日のことが、二人の間で話題に上ることは特になかった。それでも雪臣は、ときおり母の体調を珠希に尋ねてきた。特別な扱いをするわけではない。けれど、彼が母ときちんと向き合ってくれたという実感は、珠希の中に確かに残っていた。 婚姻前の記念として、雪茂から制作を求められたジュエリー――珠希と雪臣、二人の指輪も、完成へと近づいていた。修正後のCADデータを確認してから、原型の出力、細かな調整、鋳造と、これまでいくつもの工程を重ねてきた。 そして今日、二本のマリッジリングは、ようやく最終研磨の日を迎えることになったのだ。 なにかがひとつ進むたび、契約の話でしかなかった結婚が、少しずつ現実味を帯びてきた。隣にいる雪臣は、今、なにを思っているのだろうか。 「綺麗……」 ほんの小さな環を前に、思わず呟いた。職人がリングを研磨用の円盤へ慎重に当てるたびに、白く曇っていた地金の表面に、少しずつ光沢が生まれていく。 「仕上がりました」 職人が布の上へ並べた二本は、形こそ違うが、表面の高低差がひと続きの流れを作っている。 「雪臣くん、左手、貸してくれる?」 雪臣は近くの椅子に腰を下ろし、杖を右手に持ち替えて、ゆっくりと左手を差し出した。珠希がその手を取った瞬間、彼は反射的に手を引っ込め、右手から杖が滑り落ちた。カツン、と床を叩く音が響く。 「ど、どうしたの? 大丈夫?」 「申し訳ない」 珠希が床から杖を拾って渡すと、雪臣はただ気まずそうに下を向いていた。 「もう一度」 珠希は雪臣の手を取り、リングを薬指へ通した。 「平気そう? きつくない?」 「…………」 左手の薬指に嵌った指輪をじっと見つめている雪臣の瞳が、小さく揺れ動く。 「雪臣くん?」 「あぁ……大丈夫だ」 「よかった。私の方も確認してみよう」 珠希は婚約指輪を一度外すと、マリッジリングを自分の薬指にさっと嵌め、その上から再び婚
ついに迎えた、珠希の母親と会う約束をしていた日曜日。 午後、雪臣は左手で杖をつき、右手に小さな花のアレンジメントを抱えて、珠希と共に氷室メディカルセンターの廊下を歩いていた。 「あっ、田代先生……!」 珠希の声に廊下の先を見ると、産婦人科医の田代沙耶が売店のビニール袋を片手に、こちらに向かって歩いてきていた。 「珠希さん。久しぶりですね。その後、お身体は大丈夫ですか」 「はい。おかげさまで、少しずつですが回復しています」 「それは何よりです。……そして、どうしたんですか、氷室さん」 眉を顰め、雪臣の頭の先からつま先まで怪訝そうに眺めてきた田代。隣の珠希が苦笑する。 「どうもしていない」 「花、潰れますよ」 黄色と白の花を囲む透明のフィルムが、右手の中で音を立てた。雪臣は慌てて指の力を緩める。 「……まぁいいです。それでは、珠希さん。また、なにかあればいつでも診察にいらしてください」 「あ、はい。ありがとうございます」 すたすたと通り過ぎていく田代の背を見送り、雪臣は小さく息をついた。 「雪臣くん、そんなに気を張らなくても大丈夫だよ」 「張ってない」 反射的に否定したものの、実際、雪臣は緊張して昨日ほとんど眠れなかった。 何度か改装されてはいるが、ここは雪臣が幼少期の大半を過ごした病院だ。廊下の造りも、病室の扉が並ぶ景色も見慣れている。けれど今日は、かつての患者としてでも、氷室家の一員としてでもない。珠希の婚約者として、彼女の母親に会うために来たのだ。 そう意識するたび、家のように見慣れたはずの場所が、まるで別の世界のように感じられた。 「お母さんの病室、ここ」 入院棟の三階……廊下の突き当りで珠希が立ち止まった。雪臣は杖のグリップを握り直す。 娘さんを必ず幸せにします――とは言えない。 今日まで色々それらしい挨拶を考えてはいたが、納得できる言葉は、やはり見つからなかった。 「入るね?」 「…………」 雪臣が頷くと、珠希が扉を開けた。
金曜日の午後。 ルリカは、大型商業施設『シカクイ』本社の正面入口を見上げていた。 シカクイの店舗は、お客として何度も利用したことがある。しかし本社を訪れたことは一度もなかった。 「大丈夫……」 ルリカは自分に言い聞かせるように、握った拳を軽く胸にあてがった。 シカクイ最大規模の店舗である『渋谷シカクイ』には、HIMURO MOTOMACHIがテナントとして入っている。若年層の来店が多く、顧客によるSNSでの拡散も見込める場所だった。 ――渋谷シカクイの次の催事で、INUIを目立たせることができれば……上手くいく。 今日、企画を決める必要はない。後日販売促進部の担当者と直人を会わせる。そこまで繋げることに、集中する。喋る内容や所作の一つひとつも、この数日の準備で何度も頭に叩き込んだ。焦らず用意した通りに進めれば、きっと間違えない。 ルリカは宣伝部の社員証を受付で見せ、約束の相手を呼び出してもらった。 案内された応接室には、四十代ほどの男性と、若い女性社員が待っていた。二人から名刺を受け取り、ルリカも慌てて自分の名刺を差し出す。 「まぁまぁ、どうぞおかけください」 男性社員の方に促され、ルリカは緊張で声を震わせながら、「失礼します」と席についた。 「早速ですが、本日は、どのようなご提案でしょうか」 女性社員が手帳を開きながら言った。その声がどこか冷めているような気がして、ルリカの心拍数が上がっていく。 ――しっかりしなきゃ。 「はい。次の渋谷シカクイのブライダル催事に、INUI Jewelryを入れていただきたいんです」 ルリカは持参した資料をテーブルへ置き、事前に練習してきた言葉を順番に話し出した。ジュエリーだけではなく、館内のドレス店や写真館、飲食店も参加するブライダルフェア。メインアトリウムへ期間限定の売り場を設置し、館内を回遊する仕組みを作る。 男性社員はルリカが渡した資料へ目を落とし、難しい顔をした。 「ですが、弊社の渋谷の館にはHIMURO MOTOMACHIさんが長く出店されています。同じ宝飾品を扱うINUIさ
旗艦店の見学と、メイユーとの昼食を終え、HIMURO MOTOMACHI本社へ戻ったその日の午後――珠希はプロジェクトルームAにいた。 珠希のもとへ、CAD担当者から先週頼んでいたマリッジリングの初回データが届いたのだ。図面をもとに起こされた二本のリングが、画面上で立体的に確認できるようになっている。平面では拾いきれなかった違和感や、実際に身につけたときの不都合を探すため、送られてきた項目を一つずつ確認していく。 ――雪臣さんも、このあと三十分ほど、プロジェクトルームへ入る予定ですよ。 先ほどこの部屋へ向かう途中、トイレで偶然すれ違った瀬原からそう聞かされ、驚いた。雪臣が今日も忙しいことは分かっている。それでも瀬原によれば、初回データを確認するために時間を取りたいと、雪臣が瀬原にスケジュールの調整を頼んだらしい。 CADのデータを開きながら、昼食の席で聞いたメイユーの話が、また頭に浮かんだ。 ――僕に聞くよりあの女性に。 今更八年も前のことを考えるなんてくだらない……と言えばそれまでだ。けれど、雪臣はなぜ、わざわざ関わりの乏しい自分のところへメイユーを連れて行ったのだろう。他にもオープンキャンパスの関係者はたくさんいたのに。珠希はどうしても引っかかりを覚えた。 本人に尋ねてみたい気もしたけれど……今は指輪の確認が先だ。珠希は疑問を胸の片隅へ置き、データの閲覧を続けた。 ほどなくして控えめなノックの音がして、ゆっくりと扉が開く。 「雪臣くん。おつかれさま」 「ずっと来られず申し訳ない。見てもいいか」 「もちろん。これ。さっき届いたデータ。そっちのパソコンへ転送した方がいい?」 「そのままでいい」 雪臣は本当に時間がないのか、向かいにある自分の机へは行かず、椅子を動かして珠希の隣へ座った。そして机の脇に杖を立てかけ、直接、珠希のパソコンの画面を覗く。 画面には、まだ色も質感も与えられていない二本のリングが並んでいる。 珠希はマウスを動かし、リングを一回転させた。 珠希のリングは、婚約指輪と重ねても石座に縁が当たらないようになっている。雪臣のものも、左
あの日から、多摩の姿を目にすることが増えた……。 正確に言うなら、自ら探しているから目にすることが増えたのだと、自覚していた。 必修が多い一年生という立場上、ほとんど同じ講義を受けているのだから、以前から近くにいたはずだった。けれど今は、講義室へ入ればどこに座っているのかがすぐに分かる。廊下の向こうから笑い声が聞こえるだけで、彼女だと気づく。 話しかけたい……と思ったことがなかったわけではない。 けれどなんと声をかければいいのか、分からなかった。 それは、物心がついたときから、ずっとだ。病弱に生まれ、幼少期のほとんどを氷室メディカルセンターの小児科とリハビリ科で過ごしていた。後から入ってきて、先に退院していく子どもを何度も病床で見送った。小学校へ入学してからは、さらに人との距離の取り方が分からなくなった。雪臣は、いつも周りと違いすぎた。 それに比べて多摩は、いつも友人に囲まれている。 学食でほんの数分、同じ時間を過ごしただけの自分に、多摩の輪の中へ入っていく理由などなかった。分かってはいる。それでも学食へ行くたび、雪臣は目の前の空席を見てしまう。また彼女が座るはずもないのに、ナポリタンを載せたトレーが近づいてこないかと期待していた。慰めにもならないが、家政婦の三板に夕食の献立をナポリタンにしてほしいと頼む回数だけが増えていった。 ――多摩。 課題へ取り組んでいるときも、多摩の姿を探しては、目が合いそうになり、雪臣が先に目を逸らす。その度に、あの言葉が何度も蘇った。 ――笑顔になれる資格って、誰にでもあると思うから。 図案の線を引く前に、誰が身につけるのか、その人に何を感じてほしいのかを考えるようになった。そう簡単に上手くは出来なかった。それでも、以前とは違うものを作りたいと思い始めていた。 ――多摩、今日も遅くまで課題に取り組んでいたのだろうか。 ――多摩なら、僕のこの図案をどう思うだろうか。 ――このあと学食にくるだろうか。多摩は、ナポリタンが好きなのだろうか。 いつの間にか、心の中で彼女の名前を呼ぶことが当たり前になっていた。その感情の名前は知らな







